爺キャンプ IN 愛知・岐阜・長野

このキャンプでは温泉に何度も入ったりするなどして
基本的に行動がジジイ化していました。


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今回のキャンプの記録は、記録ノートをなるべく忠実に写していきます。今までになかった方法ですが、これにより、より我々のキャンプがリアルに見えてくるのではないでしょうか。なお、写真がやたらと多いです。ダウンロードに時間がかかりますが、トイレに行って来るなり、コーヒーを入れるなり、ミミカキを探すなりしていればすぐにダウンロードできるでしょう。

(写真は、日誌帳)


〔日程〕
1998年9月1日(火)〜6日(日)
〔場所〕
愛知県下山村〜岐阜県上矢作町本郷付近の上村川〜 長野県伊那市
〔参加メンバー〕
浅里拓自・須藤公夫・高橋徹也・高橋竜雄・小林功

出雲は8月30日にアフリカから帰る予定が、9月6日帰国に変更。よって、今回は不参加。

今回のキャンプまでの経緯:
 当初の予定では、我々は東北でキャンプをすることになっていた。しかし、ここ1週間ばかしの台風4号の影響による前線の活発化に伴う東北を中心とした大雨により、多大な被害が出てしまったため、比較的に晴れている「西へ」むかうことになったのである。懸念されていた台風4号の直撃はなかったものの、我々はとにかく西に逃げてきた。そして、今、愛知県の下山村というところにいる。

9月1日(火曜)のできごと
 我々はAM10時に東名高速の中井PAに集合予定だった。しかし、小林(このページの作者)が荷物の積み込み作業と途中の待ち合わせ場所までの渋滞などにより大幅に遅れてしまったため、結局AM11時少し前くらいに全員が集まる。本当に申し訳ないことをしたと深々と反省。

 今回は小林カーと浅里カーの2台でキャンプに出た。両方の車には、キャンプ道具が溢れんばかりに積まれていて、危ないくらいだ。 中井PAにて、これからの予定を話し合う。この時点まで、「西へ」行くことしか決めていないというのは、何ともJCTらしい呑気さだ。キャンプに出る前に親に「今回はどこ?」と聞かれたが、「西の方だ」としか答えられなかった。「ふーん」と納得する親も親だが。結局、そこでの話し合いで豊川付近でキャンプをすることに漠然と決定する。

 PA12時、日本平PAにて昼食をとる。しばらくは豪華な食事にありつけないから、味わいもひとしおだ。浜名湖SAにて、目的地・コースなどを最終的に決定した。直前まで目的地などを決めないが、すぐに決まってしまうのもJCTならではと言える。

 浜名湖SAはやけにハンペン屋の宣伝の喧しかった。(きつね色がいいね!!カニ!イカ!エビ!ホタテ!)エンドレスカセットテープで、ずっと大音量でこの文句を流している。耳から離れなくなった。ハンペン一個300円、誰が買うもんか。

  日本平PAから浜名湖SAまでの区間で、面白いことが起こった。小林カーは追い越し車線走行中、一台の社用車に煽られた。右ウィンカーでしきりに煽るから、ウザイことこの上ない。このような車には関わらない方がいいと思ったから、ぼくは走行車線に戻って、その車を先に行かせた。その後、ぼくはまたその車の後ろについて、様子を覗った。その車は、またその前に走っていたタンクローリーをも右ウィンカーで煽りだした。3分くらい同じことをしていたので、そのタンクローリーの運ちゃんは切れて、突如ジグザグ走行をはじめて、黒い排気ガスをボハボハと吐き出して、煽っていた車に吹き付けた。それを見て、爆笑したのは言うまでもないが、その後の出来事で、さらに笑った。その後、タンクローリーは一旦走行車線に行って、その社用車に追い越し車線を譲り、それを先に行かせた。社用車が先に行くや、タンクローリーはその後ろにつき、前を走っていたトラックとその横にいたもう一台のトラックで、小さなその社用車を大きな車体の壁で閉じ込めてしまった。あれは恐らく無線での連携プレーだと思われる。大きなトラックとタンクローリーに挟まれてリンチにあった煽り社用車はビビってしまい、それ以降、走行車線をドキドキしながら走ったとさ。

 浜名湖SAで休んだ後、豊川ICで高速を下り、作手村の方に向かう。その付近でキャンプポイントを探すが、村を一周しても結局見つからず、その後、いつも通りの放浪がはじまった。当初はPM4時、遅くともPM5時までにはどうにかポイントを見つけようと話していたが、数々の村町を行き来していたら、日が沈んでしまった。JCTのジンクスとして、初日はキャンプサイト探しが難航する、というのがあり、今回もそのジンクスにはまってしまった。

  あまりにテントを張る場所がないから、道の脇の待避場でキャンプをすることを考えたが、やっぱりそこは危ないんじゃないか、という考えが先に立ち、やめた。日もとっぷりと暮れて、辺りは暗くなり、完全にキャンプ地探しは難航の色を深めていった。やっぱりか、という感情とともに、腹の減りから来るイライラもあいまって、みんな疲れてきていた。ぼくは、ここは開き直って楽観的になる必要があると思って、みんなで記念撮影をした。

 その後も暗い山道をクネクネと運転して、やっとテントの張れそうな場所が見つかった。広い空き地の真ん中に、一本の板切れが立っていて、そこが誰かの土地であることを証明していたが、まあ、一泊くらい許してくれるだろうと、そこをその日のキャンプ地に決定した。近くに川もない、単なる空き地でキャンプするのは何だか味気ないが、取りあえず、今日のところは寝れる場所があるだけでいいことにしよう。その場所は山に囲まれ、街灯もなにもない。真っ暗だ。持参していた電灯を頼りに、一個のタープ付きテントと、一個のドーム型テントを張った。タープ付きのテントは、大体が骨組みが金属で、組み立てるのも面倒だし、運ぶにも重いけど、雨の降ったときなどは、その中に避難できるし、濡れちゃいけない荷物などを置いておけるので、便利だ。一方、ドーム型テントにはそのようなスペースはない。でも、ドーム型は軽くて持ち運びは便利だし、組み立てるのもすごく簡単だ。どのテントにも一長一短があるもんだ。

 夕食にカレーを作って食べる。初日のキャンプ地探しの困難さを予想して、予め食料を持参していたのが幸いした。美味なるできだった。その後はラジオで野球中継を聞きながら、いろんな話をして、寒くなってきたからテントの中に入って、そのまま疲れてみな眠る。

9月2日(水曜日)
 朝食に納豆ゴハンを食べ、テントを撤収。10時半頃にはその場を去った。そこは小学生の通学路になっていたようで、何人かのメンバーは小学生の話し声が外で聞こえて起きたらしい。こんな会話を外でしていたようだ。

「なんでこんなところにテントがあるの?」

「泥棒かなあ・・?」

 泥棒はキャンプしません。思考回路が実に小学生レベルだ。小学生だから当り前か。

朝はどこでも素晴らしい

 身体が汗でかなり気持ち悪かったため、近くの温泉を求めて車を走らせた。風呂に入れてもらえるかと思って訪ねた旅館では我々を受け入れてもらえなかったものの、そこのおばちゃんが代わりに「どんぐりの湯」という温泉大衆浴場を教えてくれた。600円という大金を払わないと入れなかったが、ジジイキャンプチームはいそいそと腰を30度位曲げて入っていった。そこは馬鹿でかいスパだった。平日なのに、ジジババをはじめとして多くの人が来ていて、やや驚いた。風呂に入ってさっぱりした後は、みんなでジュースを飲んだりタバコを吹かしたりしながら、楽観的にのんびりとくつろいだ。その辺が実に今回のキャンプの要と言える。のんびりし過ぎて、午後2時半になってしまい、慌ててそこをあとにした。

 買い出しのためのスーパーを探していたら、細い道に入ってしまった。なんだか分かりにくい標識が多く、イライラした。この写真は、間違って民家の庭に2台の車で入ってしまった時のもの。

  やっとのことでスーパーを発見して、3人が買い出しをし、2人はそこにあった水道で、たくさん持ってきていた水タンクに水を補給した。

 その後、心機一転して、キャンプ地探しに出発する。約30分後、岐阜県の上矢作町にて素晴らしいポイントを発見!上村川沿いに、大きな空き地があって、そこはあたかもキャンプ用に用意されたような土地だった。そうかと言って、そこがキャンプ場であるということでもない。水道なんてどこにもなかったし。

 大抵の場合、「お、ここはキャンプにいいとこだ!」と感動すると、そこはキャンプやBBQを禁止している場合が多い。特に伊豆では酷い目にあった。あんなキャンパーなどアウトドア愛好家にとって排他的な場所はない。ぼくは伊豆が断じて嫌いです。その発見した場所を細かく視察したが、どこにもキャンプやBBQ禁止の立て札や、見張りもいない。とにかく「自由にしなさい」ということなのだろう、と解釈した。

 

 このポイントは、車で橋を渡っている時に見つけたものだ。みんな「ここは!!」とピーンときたらしい。そこをキャンプ定住地に即決して、荷物を運んでテントを4つ張った。一つは四国では一回崩壊して再起不能になりつつも、新しい骨組みで見事に復活を果たした、あのバカデカテントだ。そのテントは2部屋付いているから、合計5部屋がある。今回の参加者は5名だから、一人一部屋の計算だ。個室キャンプ。初めての体験だ。実に無駄が多いが、一度やってみたかった企画だ。今までにない贅沢なキャンプだが、夜になると途端に孤独になる。今回のキャンプの名前は「爺キャンプ」。老後の孤独に今から慣れておこうという、厳しい訓練でもある。

四国四万十川増水以来、見事に復活したバカデカテント

 この日は夕食に肉野菜炒めと炊き込みゴハン、味噌汁を作り、大満足だった。出来上がった料理の写真はこちらから。ヨダレを垂らさないように。飯の準備はみんなでやる。米を炊く人、野菜を切る人などなど。準備の模様は、ここにあります。夜、あまりに暇でやることがないから、焚き火をする。持ってきていた薪と木炭3kgを燃やす。12時頃個室に戻る。夜更けまで愛について語っていた若いジジイもいたようだ。

9月3日(木曜日)
 7時から9時の間に起床した。いつもキャンプでは、朝は室内の異常温度上昇で目を覚ます。夜更けや朝方は実に寒いのだが、日が照り付けると途端に暑くなる。だから、眠りが足りなくても、炙り出された虫のように、みんなモゾモゾとテントから出てきた。

 朝食は納豆、ゴハン、味噌汁。JCTのスタンダードだ。昼頃、メンバーは交代で風呂に入りに行くことになった。ぼくは風呂に入らなくてもどうってことなかったし、面倒で時間も食うので乗り気じゃなかったんだけど、多数決で敗れ風呂に行くことになった。JCTの衰退を感じた一瞬であった。

 3人が先に行き、ぼくを含む2人が後に行くことになった。3人が帰ってくるまでに2人でタープテントを張った。これで涼しく休める場所ができた。後は、基本的にくつろいでいた。

 先発隊は水を昨日のスーパーの前で汲んで、その後に「どんぐりの湯」に行ったが、定休日だったようで、その後長野にある「ひまわりの湯」に行ったようだ。3時間以上経過して先発隊が帰ってきた。そして、ぼくら2人も教えてもらったスパに向かった。やたらとクネクネとした細い国道を30分も車で走り、岐阜から長野に入って、やっとその「ひまわりの湯」はあった。館内には常に演歌が流れており、地元のじいさん、ばあさんを引き寄せていた。そうかと言って、年寄りばっかしかと思うと、中には若い人もいて、ちょっとびっくりした。

 入浴の帰りに買い出しをした。キャンプ地の周辺で唯一の商店「いかだや」にはお世話になった。

夕食メニュー
ごはん(ふりかけ)、手打ち式うどん、味噌汁(豆腐、ゴボウ、人参)

 何がメインなのか分からない夕食だったが、気にせず美味い美味いと食う。

 JNA(日本野糞協会)の会長である浅里は、昨日何かの虫か植物に左足を刺され、今日の朝には少し腫れていたが、温泉に行ってからは腫れがどんどん酷くなった。夜になると、腫れはさらに酷くなり、痛くて歩くのにも支障が出てきたようだ。左足の甲が腫れ上がり、右足の1.5倍位の大きさになっていた。かなりの程度で浅里はブルーになっていた。それを励ますように、メンバーは「もう切断だな」「腐ってるよ」「心臓や脳に毒が廻るのも時間の問題だね」「死んだな」などを好き勝手なことを言っていた。浅里はその足の腫れの原因が何なのか分からなかったため、余計に不安を募らせていた。そこで、優しいぼくらがその腫れの原因を考えてあげることになった。いろいろ議論が盛り上がったが、代表的な説は次のようなものだ。

毛虫説(最もオーソドックスな説)
イースト菌説(あの腫れはイースト菌によるものだという説)
コオロギの卵埋め込み説
(そこに沢山いるコオロギが左足に卵を産み付けたという説)
白血球死骸説(虫刺されに対抗した白血球が死んで、積み重なったという説)
毒物混合説(いろんな虫の毒がそこで化学反応を起こしているという説)

 そんな話で夕食後は盛り上がっていたが、時間が経つにつれて腫れは酷くなっているようにも見え、みんなで本当に心配しはじめた。そして、「やっぱり明日朝一で医者に行ってきた方がいい」という結論になった。キャンプには何があるか分からない。保険証のコピーを持ってきていたのは実に幸いだったと思う。

 浅里は雨男としても有名で、左足を抱えてしょんぼりとしていると、実に天気が良かった。元気なときは必ず雨が降ることになってるのだ。その夜は、ビールを飲んで、12時過ぎにそれぞれのペースで就寝した。

9月4日(金曜日)快晴
朝、朝食も食べずに浅里は一人で病院に行った。連れていってあげることを申し出たが、一人で行く方が気が楽なようなので、一人で行かせた。大丈夫だろう、と思いつつも、メンバーの一人が病院に行っている間は、みんなで心配していた。
写真は、病院に行くちょっと前に、椅子で左足切断のイメージをしている浅里と、笑って違う話題で盛り上がっている他のメンバーのシニカルな対比です。

〔ちょっと気が付いたこと〕
キャンプの記録というものは、どうやっても一般性を持たすことはできません。人それぞれにキャンプの楽しさのポイントも違うし、同じことを経験しても、それを楽しいこと、つまらないことと、いろんな捉え方があります。JCTのキャンプの記録には一般性はありませんが、その中に何か少しでも誰かと通ずるものがあれば十分なのです。

 浅里のいないすきに、4人で朝食。納豆ゴハン、フリカケ、インスタントラーメンという豪華な内容であった。ここに、病院から帰ってきた浅里自身による記録がある。紹介しよう。

浅里の病院日記
一輪車でキャンプ地に最も近い都市の恵那へ向かった。30分ちょっとで着き、駅前のタクシー運転手に、近くの病院の場所を聞いた。その運転手は阿藤海に似ている男で、丁寧に教えてくれた。

病院は比較的大きく、まず、キャンプにまぐれで持ってきていた保険証のコピーを出し、受け付けを済ませた。病院は年寄りで溢れていて、見物していると、一人ずつ大量の薬を持ち帰っていた。薬物の過剰投薬を実感し、順番を待った。

診察室に入ると、30才位の医者がいた。足が腫れた経緯を説明していると、その医師はカルテに今朝このノート(このページ冒頭の写真参照)に須藤が書いたのと同じオレの足の絵を描いていた。その絵は思わず笑い出したくなるほど、そっくりだった。腫れている部分に赤ペンで斜線を引くのまでそっくりだった。治療は患部にガーゼと薬を塗り、包帯を巻いてすぐに終わった。そして、飲み薬をもらった。

結局、何に刺されて腫れたのかは判明しなかった。

〔反省点〕
★キャンプでは生足を出さずに、靴を履くべき
★かきむしると、腫れが広がる
★温泉で温まると、腫れが広がる
★草むら、ガケには充分注意して入る

(日誌の続き)
 朝食後、基本的にボケーとして時を過ごす。この上村川は何というか、人工的な香りがする川で、魚の気配があまり感じられない。四万十川とは対照的だ。

  このキャンプがジジイキャンプと呼ばれる訳は、ボケーとして時の過ぎるのを待ち、すぐに腹が減ったと言い出すことからであると思う。たらふく食った後も、しばらくするとまた腹が減ったと言い、メシはまだか、と騒ぎ出す。ボケ老人のようだ。

 夕方、3人で水の汲み出しと買い出しに出掛ける。また「いかだや」に行ってきた。あの店がなかったら、我々のキャンプは成立しなかったと思われる。いかだや、ありがとう!缶ジュースに毒物が入っていたという戦慄のニュースを聞いていたため、ペットボトルを買う時は注意して底を調べてみたりした。

 夕食後、タープテントの下でいろいろな話をする。これまでの就職活動のこと、これから卒業して就職してからのこと、どれもJCTにとっては大きなことだ。

 ぼくは昨年1年大学を休学してオーストラリアに勉強しに行っていたため、卒業は他のメンバーよりも遅れる。それと、今回は参加できなかった出雲という男も、同じく休学して世界を放浪していたので、ぼくと同じく卒業が遅れる。

 しかし、他のメンバーはもう職にもありつき、来年の4月からは社会人になるのだ。よって、もう長い学生の夏休みというものがなくなる。つまり、長いキャンプというのも、ほぼこれからは不可能になるということだ。週末を利用してのキャンプ場を使った短いキャンプなら可能だろうが、ジプシーのような長期放浪型のJCTキャンプはもうこれで終わりなのだろう。そう考えたら、なんだか実に悲しくなる。

 高校3年の時、無鉄砲なチャレンジ精神でこのキャンプチームの母体ができ、それ以来、ボチボチと破滅的なキャンプを繰り返してきた。ここのところ、JCTは何となく保守的になってるようにも思うが、基本的な部分は変わらない。ぼくも安全面に関しては保守的になったと思う。でも、遊び心というか、JCTの輝く部分を失ってはいけないと思う。それを失ったら、JCTでなくなる。

  しかし、これからもJCTは不滅であることは変わりない。ぼくと出雲でこれから先1年間は大学でJCTを守るし、メンバー全員が就職しても、キャンプは続けるつもりだ。それがどんなキャンプに変遷していこうと、それがJCTのその時のキャンプ、ということになる。キャンプ場も使ってしまうかもしれない。でも、社会人になって日々の生活に埋もれそうになっても、遊び心というか少年の心を持ち続けていられるJCTでありたい。少なくともJCTでキャンプをしている時くらいは。

 味噌とトイレットペーパーで野糞そっくりに仕立てて、それに酒をかけて手を合わせて拝んでキャンプが終わっていく。そんなキャンプをこれからも堅持していきたいと思う。

 明日は移動日、夜も更けてから眠る。

9月5日(土曜日)
 今日は移動日、長野の方へ行くことになった。浅里がかつてJCT以外のキャンプで一度訪れたところだ。朝食後、1時間弱で全部の荷物を片付け、再出発の準備ができた。「たつ鳥、跡を濁さず」これがいつもJCTの心掛けている教訓だ。キャンプした場所を汚して帰ることなどできない。来た時よりむしろ、きれいにして帰るくらいの心構えでいる。

  昼前には出発する。メンバーの大半は、正体不明の虫にあちこちを刺されていた。蚊とは違う何か。キャンプに来ると、必ず刺されるが、今回のキャンプではそれが酷い。ぼくも含め他のメンバーも医者に行きたいくらいだった。場所が悪かったのかもしれない。

  あと、自己防衛もきちんとすべきだと思った。半袖短パン、裸足に草履では、虫に「さあ。おいで」と誘惑しているようなもんだ。これからは服装にも気を付けたい。

 夕方になって長野の伊那市に着く。日の暮れる前に、風呂に入り、キャンプ地まで移動する。そのキャンプ地は、浅里推奨だったが、坂の勾配がきつかった。でも、それはそれで実に面白かった。写真では見難いが、斜面が結構きついところなのだ。

 浅里と高橋徹也は街まで買い出しに出掛け、高橋竜雄、須藤、ぼく(小林)はテントを張ったり、近くのグランドの水道から水を汲んだりした。最後の夜、当然の如く、夕食は豪華に焼き肉となる。それに、まだ米が死ぬほど余っている。余裕で一人一合以上ある。それも全部使ってしまうことになった。翌朝はカップラーメン一人二個が朝食になってるから、持参した米は使い切るべきなのだ。

  買い出し班は肉と野菜をやはり死ぬほど買ってきた。そして、失敗しかけた死ぬほどの量のゴハンとともに食べた。実に美味かった。肉は本当に美味い。キャンプの夜に食べる肉は、また格別な味がする。5人は猛獣の如く食べた。結局、ゴハンも含め、全部を平らげてしまった。食べた後は、みんな苦しくてゴザの上で転がっていた。

  その後は、余っていた木炭と新聞紙で焚き火をした。いつものキャンプと同じく、キャンプ最後の夜は静かに更けていった。

 そこが斜面であることは、寝袋に入ってみて、改めて感じた。頭を下にしては、絶対に頭に血が上って眠れない。当然、頭を上の方にして寝るわけだけど、それでも、滑りやすい銀マットの上では、寝袋ごと「ズズズー」と下にずれ落ちる。すごい体験だった。ゆっくり眠れたもんじゃない。一度寒くて起きると、ぼくはテントの下の隅の方で小さくなっていた。いつのまにか、身体ごとズリ落ちていたようだ。JCT的だな、と思った。

9月6日(日曜日)
 キャンプ最終日、テントを畳んで帰る支度をして、そこを足早に去った。9時半くらいだったろうか。みんな斜面でのキャンプで早起きしてしまったようで、7時には全員が起きていた。だから、朝食後も割と早い時間に動くことができたのである。

  もう未練はない。帰るのみだ。中央高速の伊那ICから入り、諏訪湖SAで今回のキャンプの金の清算をした。5泊6日で、交通費、メシ代、サービスチャージ、消費税、テーブルチャージ、賄賂など、全部込みで、1人11593円だった。相変わらずの驚愕的な安さだ。だからJCTのキャンプは面白い。

 談合坂SAでもういちど休憩して、そこで解散した。なんだか歴史的な解散であったように感じた。もう今までのような長期間のキャンプの実現は難しくなる。もしかしたら、これが最後になってしまうかもしれない。

 そう考えたら、ふとJCTという3文字のアルファベットが意味を持ったものに感じられてきた。JCT=Junction、道が出会ったり、分かれたりする接点がこのジャンクションだ。これから、メンバーは社会という海原に出て、別々の道を歩んでいくが、またいつでも戻って来て元のメンバーとキャンプを楽しむことができる。

  JCT、我々のキャンプチームを形容する名前として、これ以上のものはないように思えてきた。

(おわり)


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